第一章 特ダネ、抜かれまして(2)
「こっちに他社は来ていません。今のところ輝川社長も出てきていないですぅ」
午前八時過ぎ。「敗戦処理」のため翠玲のマンションを出てから四時間半後。
スマホの送話口を手で隠しながら、状況を尋ねた圭介に性格そのままの陽声が返ってきた。
電話相手は小宮山翔子《こみやま・しょうこ》。圭介とともに外食業界を担当する三年目の後輩記者で、皆から「コミショウ」の愛称で呼ばれている。今日は朝から圭介の指示で、輝川社長宅に朝回りしてもらっている。
「圭介さん、そっちは何か進展ありましたか?」
「いや……特に」
圭介は戦場に視線を戻す。圭介が今いるのは、新宿駅から程近い新宿ニューステーションタワーである。この三十階にシャインの本社は入っている。
眼前には、日本中央や日の出タイムス、東京魁、東洋日日、共同通信、NHK……。地方支局で経験を積んで東京へと遡上してきた今が旬の脂が乗った全国紙の経済部記者たち。その数、およそ十五人ほど。
そのお目当ては、圭介同様に星崎直倫《ほしざき・なおみち》。今回の解任劇を主導したとされ、筆頭株主の東洋キャピタルから派遣された社外取締役である。
通勤ラッシュの時間帯に入り、このビルに出勤する人も増えてきた。新宿ニューステーションタワーは、シャインだけでなく、他にも多くの有名企業が本社を構えている。一階フロアのセキュリティーゲートで社員証をかざすことで、十台あるエレベーターに乗れる仕組みだ。
記者たちは出勤してくる一人一人の顔に目を光らせ油断がない。ホームページ上の取締役の写真と照合している記者もいる。その姿は、さながら警察の「見当たり捜査」を彷彿(ほうふつ)とさせた。
「コミショウ、こっちは大盛況だよ。車寄せも合わせれば、多分、二十人くらいはいると思う」
圭介は自嘲(じちょう)する。
経済専門の記者が他社に経済ネタを抜かれる。全国紙の経済部記者がネタを抜かれるのとは失態の重みが違う。
屈辱以外の何者でもなく、ここにいるだけで惨めさが際立っている。
「あの、クリスティーンとか言うシャレた名前の女はいましたか?」
<遊田・クリスティーン・江麻>
特ダネを打って、圭介を窮地に追い込んだウィレット通信の記者である。
「いや……どうだろう」
改めて周りを見渡す。
「数人の記者とは名刺交換したけど、いないかな」
圭介はセキュリティーゲート付近の記者達を少し離れた位置で見ながら言う。車寄せの方にも数人の記者がいるが、やはり想像上の「クリスティーン」なる女はいない。
「そうですか……」
コミショウの声に落胆(らくたん)の色が滲む。
それもそのはずだ。状況は最悪である。
『夕刊初版(二版)の一面でブチ込むから、さっさと裏取りして、テメーは十時までに原稿を送れ︎』
午前三時のモーニングコール以降、青木とは何度か電話をして、詰めに詰められた。その上で厳命された。
青木は圭介の所属する第七グループの担当デスクに加え、きょうの夕刊担当のデスクもあった。
『アサボリ、間に合わなかったら、切腹(せっぷく)じゃ済まねーかんな︎』
電話が切れる直前、青木が放った一言が、再度、圭介の鼓膜をいたぶり、顔が強張る(こわばる)。
十時まではあと二時間だ。カチカチカチ──という圭介の体内の時限爆弾の音は着実に大きくなっている。
──いや、リミットは正確には二時間ではない。
他社に後追い記事を先着された時点で圭介は終わる。
現に速報メディアの一部の記者の目は、獲物を狩る(かる)ような鋭さがあった。明らかに先着を狙っている。先ほど何気ない風を装って圭介は、記者端末のキーボードを軽やかに叩く他紙の記者を後ろから覗いた。予定稿がちょうど送出されるところだった。
「ここにいるどの社よりも早く後追い速報を打つ」
皆、表向きは談笑しながらも、爪を研いで、そんな野心を胸に抱いていた。圭介も予定稿は用意しているものの、先に裏取りされて、報じられたら終わる。
自分の運の無さも圭介は呪っていた。そもそもシャインは時価総額600億円程度の規模の外食企業である。もし決算繁忙期や株主総会時期ならば、全国紙の経済記者はネタを追ってこない規模だ。
だが、きょうは四月十四日で、三月期決算始まるまで一週間ほどある。ネタの閑散期(かんさんき)なのだ。
その不漁(ふりょう)の時期に「創業家社長の解任」というセンセーショナルな美味しそうなネタが降ってきた。今日の仕事が見つかって、安堵しているような表情の記者さえいる。
ということで圭介は今、全国紙の経済部記者たちと真正面(ましょうめん)から戦わなければならない状況に陥っているのだ。
「あの圭介さん……」
電話の向こうのコミショウの声が、思案を吹き飛ばす。
「確か、ウィレットの記事には、『取締役会は《《きょう》》開かれる』旨(むね)の記述がありましたよね? ってことは、役会は午後の可能性もありますよね?」
<きょう開催される緊急の取締役会で解任を決議し、正式決定する。>
ウィレットのスクープには確かにそんな記述があった。
「確かに午後の可能性もあるけど……だけど、だからと言って、幹部全員が午後に出勤してくるってことはないでしょ」
圭介はそう笑って返したが、内心では焦燥感(しょうそうかん)が膨張(ぼうちょう)していた。
「そろそろ経営幹部の誰かが出勤するさ」
その言葉は願望を多分に含んでいた。
「コミショウ……何か巻き込んでしまって、悪かったな」
外食担当と言ってもコミショウは居酒屋やバー、カフェなどが担当だ。つまりシャインの担当ではない。
「全然大丈夫ですよ。私も外食担当だし、圭介さんとは一蓮托生(いちれんたくしょう)です。それに、圭介さんは担当したばかりだったんだから仕方ないですよ」
──良い後輩だ。
じわり涙腺(るいせん)が刺激される。
「マジでありがとな」
声が震えないように圭介は深謝(しんしちゃ)する。
「圭介さん、絶対逆転しましょうね! バイブス上げていきましょう!」
<バイブス上げていきましょう!>
いつもの口癖を言って、コミショウは電話を締めた。
「テンションを上げて頑張りましょう」という意味らしい。
──きっと大丈夫だ。無事に終わる。
だが、圭介のその思いとは裏腹(うらはら)に、それから刻々と時間は過ぎた。
その間、シャインの代表電話に何度もかけたが通じなかった。広報など会社関係者と話せれば、声色や返答内容からネタの真偽を精査できるが、そう簡単にはいかなかった。
さらに圭介にとって誤算だったのは、圭介の前任者の茂木和久《もてぎ・かずひさ》への電話も全く通じなかったことだ。茂木ならば、広報の直通や輝川誠の電話番号など関係者の連絡先を知っているのではないかという淡い期待もあった。
『困ったことがあれば、何でも聞いてや』
三月下旬の引き継ぎの際に茂木はそう言って笑みを見せたが、飛んだ肩透かし(かたすかし)である。
「星崎さん、来ましたぁ︎」
九時過ぎ。その声に圭介はハッと我(われ)に返る。
さながらラグビーのモールのような密集。車寄せにいた数人記者に囲まれながら、浅黒い精悍(せいかん)な顔立ちをした男がこちらに颯爽(さっそう)と歩いてくるのが見えた。
──社外取の星崎だ。
すぐにスマホのレコーダーをオンにして、圭介も歩み寄る。だが、既に複数の記者が取り囲んでいて、近づくのは容易ではない。
ガッ!──。先ほど笑顔で名刺交換して紳士的だったタイムスの記者は、圭介に肩を当てて前に割り込む。
「星崎さん、輝川社長はきょう解任されるんですね? 間違い無いですね︎」
他社の記者を凌駕(りょうが)するほどの声量で、質問の弾丸(だんがん)を星崎に浴びせた。
一方の星崎は鉄仮面(てっかめん)だった。反応はない。ピクリとも顔の表情は変わらない。
「答えてください! 答えがないということはイエスですね︎ これで書きますよ︎」
紳士さのかけらもない粗暴(そぼう)な口ぶりで揺さぶりをかける。
だが、星崎は動じない。まるで周りに記者などいないかのように、悠然とゲートに向かって歩いている。
「痛っ!」
圭介は叫ぶ。今度は、女が圭介にショルダーチャージをかましてきた。ポニーテールもビンタのように顔に当たって、圭介は後ずさる。もはや星崎の後頭部しか見えない位置に後退してしまった。
──せめて表情を見ないと。
そう思った瞬間、ポニーテール女がハイヒールで思い切り圭介の足の指を踏んだ。
「うぐっ!」
あまりの痛さに、圭介は苦悶(くもん)の表情を浮かべ、その場にひざまづく。離れていく一団を涙目(なみだめ)で見上げる。
──俺は、なんてザマだ。
もはや自分の今の不甲斐ない状況に対して涙目になっているのか、それとも踏まれたことによる痛みなのか、分からない。だが──。
『圭ちゃん、初めて会う人は顔より耳を見た方が良いよ』
その時、不意に鼓膜で迸ったのは、翠玲が良く言っていた言葉だった。
──そうだ。耳だ。
星崎がセキュリティゲート到達まで、あと十秒ほど。圭介は歯を食いしばり、立ち上がる。歯を剥き出して走り一団に追いつくと、星崎の耳を見るためだけに強引に集団に割り込む。もみくちゃにされながら、右耳を見ることだけに専念する。特徴は?
──特にない。ならば、左耳はどうか?
バスケ選手さながらにくるりと回転。今度は左耳を注視する。
──あった! 耳たぶが……ない? えっ、なんで?
「離れてくださぁい︎」
やがてゲート近くに門番の如く立っていた二人の警備員の怒声が響く。記者のスクラムは押し返された。
星崎がカードをかざしてセキュリティゲートの向こうの世界に消えていく。記者たちの視線を一身に集めながら、エレベーターに吸い込まれていった。
一時間後、タイムリミットの十時を過ぎた。その頃には他社も大半が撤退していた。
──もう、これ以上、ここにいても何も掴めそうにないな。
唇を噛み締めて、圭介は社用スマホを手に取る。
「掴めませんでした……」
消え入る(きえいる)ような声で、電話で報告した圭介に青木は吠えた(ほえる)。
「テメーのケツをテメーで拭けずに何が記者だ、アサボリ! 後追い記事も満足に書けねーなら、記者なんて辞めちまえ!」
だが十時半、シャインは<代表取締役等の異動に関するお知らせ>と題したリリースを開示する。
<本人からの申し出によって、一身上の都合で、輝川誠が社長を辞任する>
<後任の社長には星崎が就任する>
という二点が発表された。
シャインが二版の降版直前にリリースを発表したことで、圭介は結果的には救われた形だ。
だが、何とも言えない無力感が胸に広がっていた。
降版後の11時過ぎ。今度は第七グループキャップの米山尚志《よねやま・ひさし》から電話があった。
「深堀君、今ね、シャインからプレスリリースが本社に送られてきて……今日の新商品発表会は中止だって」
新商品発表会が中止──。心の隅では懸念していた。
しかし、いざ中止になると暗澹《あんたん》たる気持ちになる。
──唯一の希望まで奪われた。
圭介は言葉を紡げず、唇を噛み締める。
「僕も何か手伝うことがあれば、協力するからね。今回の件は、不運も重なったんだから。とりあえず、朝からお疲れさん」
米山の労い(ねぎらい)の言葉が今はあまりにも辛い。
強烈な敗北感(はいぼくかん)を胸に抱いて、圭介はシャイン本社を後にした。